【第4回 アンジェイ・ワイダ監督『灰とダイヤモンド』】
火曜日担当の中川龍太郎です。
『Plastic Love Story』のプロモーション動画が公開2日目の時点で早くも2000回を超えたということで、本当に作った人間の一人として嬉しい限りですし、この場を借りて皆様に感謝の念を申し上げます。とはいえ、本編の公開はまだまだ先ですし、そこが本当の勝負ですので、宣伝も含めて皆様に楽しんでいただけるよう、ますます精進いていく所存であります。
と、代表者っぽいことを書きましたが、この動画は撮影・照明・編集の三役を一手に担ってくれている今野康裕君(金曜日担当)が殆ど繋いでくれたものです。僕はおおまかな構成と修正の指示をしただけですので、最大の功労者は今野君と素晴らしい音楽を作り上げてくれた酒本信太君です。どうしても監督や主演の名前ばかりがピックアップされますが、ここに偉大な創り手が二人いるんだということを記憶に留めておいていただけると嬉しいです。勿論、広報や制作、録音、衣装、小道具などなど、情熱的なスタッフ・キャスト全員の努力の結晶であることは言うまでもありません。
さて、4回目の本日はアンジェイ・ワイダ監督の『灰とダイヤモンド』。
僕が幸運にも世界のナカガワになったら「どうして映画を撮り始めたのですか?」という質問を繰り返し浴びせられて、その度に僕は「池袋で不良っぽいお兄さん方と喧嘩してボコボコにされて、終電が過ぎてしまい、たまたまオールナイト上映している映画館に入ってホテル代わりにしようとしたら『灰とダイヤモンド』が上映されていて、上映が終わった後、朝焼けの文芸坐前の喫煙所で、疼く痛みを隠しながら、映画監督を志すことを誓った」と極めて長ったらしい作り話で答え続ける気がします。それくらい影響を受けた作品で、この作品と出会っていなかったら、僕はここまで映画に熱狂してきたか怪しいとさえ思います(前回のコピペですみません笑)。
この作り話は既に何人かに本当のこととして言ってしまっている可能性がありますので、心当たりのある方にはこの場を借りて謝罪させていただきます。嘘は映画の中でだけつくようにします。
ようやく本題(因みに僕の記事はネタバレを禁止していませんので未見の方は注意してください!)。
『灰とダイヤモンド』は1945年の5月8日から9日にかけての十数時間の物語です。これは欧州での大戦が終結した日であり、それは即ちナチスドイツが無条件降伏を受け入れて、ポーランドが「戦勝」した日であるともいえます。しかし、ポーランド国内、戦勝に浮かれている陽気な気分とは程遠い。当時ポーランドでは国内軍を中心とした右派とソ連シンパを中心とした左派がドイツの去った後のポーランドの主導権を争っていました。
当時のポーランドの情勢は僕も不勉強で詳しくないのですが、僕の中の理解としては第二次世界大戦後の中国における国共内戦に似たものであると認識しています(勿論厳密に言えば全然違うのですが)。即ち、当時ポーランドには共産主義を中心とした左派と愛国主義的な右派が二分した状態で存在していて、世界大戦中はナチスドイツという共通の敵がいたので共存できていたが、共通の敵を失った後はどちらが主導権を握るかで内戦を繰り広げざるを得ないという状況。
このように書き始めますと、政治的で歴史の知識を求められる映画に一見思われるかもしれませんが、さにあらず。正真正銘の、ロマンティックな青春映画なのです。
国内軍の末端にいる青年マチェク。冗談を好む明るい彼は、クールで実直な相棒アンジェイと共に、敵対する共産党の幹部チュシューカの命を狙っています。彼は自分の任務に疑いを持っていなかったのですが、無関係の労働者を誤って射殺してしまったり、バーの店員と恋愛を始めたりする中で、次第に自分の在り方、行く末に葛藤を抱きはじめます。ちょっとしたことから標的のチュシューカと小さな交流も生じて、そのことによって彼を悪人と思えなくなっていく部分もあります。マチェクという孤独な青年が、その使命感と恋と良心と大義の狭間で引き裂かれていきます。大上段から語られることも多い本作ですが、その実はややもするとナルシスティックにさえ感じるほど、セクシーでロマンティックな、痛切な青春映画なんです。
マチェクという魅力的すぎるキャラクターがどうしても物語を引っ張っていきますが、群像劇という側面もこの作品にはあります。それぞれのキャラクターがそれぞれの求めるもの、信じるもののために動きまわりますが、その動きが絶えず周囲との軋轢、更には自己の矛盾を肥大化させていきます。
シュチューカは人格者で立派な人物として描かれています。確かにシュチューカ個人は間違いなく高潔な人物なのでしょう。しかし彼が理想とした共産主義は、その後の現実社会において、『灰とダイヤモンド』(1958年の作品です)という偉大な作品を堂々と、正当に評価する土壌をポーランドの社会から奪ってしまう状態に追いやります。
思うに、イデオロギーのいずれか一方が正しいということは原則的にありえなくて、そこには国家を歴史的単位で見た巨視的な見方と、個人としての闘争という細かい見方と、二つの見方が存在するんだということだと、現時点で僕は考えています。僕は僕なりにいくつかの政治的な問題に対して「こちらの方が良いのではないか」、「これは違うんじゃないか」という考え方が多少はありますが、少なくとも僕にとって映画はその考え方そのものを表明する場ではなく、巨視的なうねりや社会の中で生きている個人単位の闘争を描く場なのだと認識しています。勿論これが絶対的な映画の在り方だなどと言うつもりはありません。しかし、アンジェイ・ワイダ監督の『灰とダイヤモンド』は、歴史そのものを描いている作品に見えて、実は個人としての闘争を徹底的に描いているからこそ、普遍的な名作になりえているのだと思います。本作に登場するマチェク、シュチューカ、ドレヴノフスキ、アンジェイ、クリスティーナ、もっと言えば暗殺を命じる冷徹な少佐や功利主義的な酒場の支配人、愛国主義的なシュチューカの義妹、ワルシャワにいた頃を懐かしむことしか能がないホテルのフロントマン、それぞれが全員、それぞれ自身であるために戦っているのです(と同時に逃げてもいる)。
自分が自分であるために戦う。それが倫理的に正しかろうとなかろうと。
自分が自分であるために戦う。そこに大義があろうとなかろうと。
そして時に、自分が自分であるために逃げる。それは自分が自分を見失わないために、その選択が後悔や死をもたらしたとしても。
『灰とダイヤモンド』は、その有様についての映画なんだ、僕はそう感じています。
安保闘争華やかかりし頃、当時僕と同じくらいの年齢だった若い人たちは、マチェクに自らを重ね合わせて熱狂したといいます。ワルシャワ蜂起を経て愛国主義的なイデオロギーに身を投じるマチェクと安保闘争の主力を担った左派的な若者たちは、その思想的な面からいっても、ざっくり言ってしまえば左右正反対です。それでもマチェクが「青春を持て余している」と思っていること、「満ち足りていない」と感じる心、現状を変えたいのに変える力がない無力感、そこに共鳴できたんだと思います。それはその全共闘世代の弟の息子ほどの世代の僕にも共鳴できる気分です。マチェクにとってのピストルが、全共闘世代にとってのゲバ棒が、僕にとってのカメラになっているだけなんだと思います。僕自身に個人的な思想があるのだとしても、それはマチェクのそれとも全共闘世代のそれとも大きな隔たりがあると思います。それでもです。それでも『灰とダイヤモンド』のマチェクに自分の姿を見出すことを止められない若者が後を絶たないのです。だからこそ、『灰とダイヤモンド』は政治映画ではなく、まぎれもない青春映画なのではないでしょうか。
今日はまだまだ書きます。最後まで読んでくださる方が一体何人いるのか、自分でも見当がつかないくらいに長く書きます。
僕はこの映画を高校生の時に初めて見た記憶があります。その当時から映画は大好きでしたが、それ以上にはまっていたのが古き良き連続ドラマ『太陽にほえろ』や『傷だらけの天使』でした。僕の映画で新宿や代々木界隈が繰り返し出てくるのは、僕がそこら辺にしょっちゅう行っているからということもありますが、両作品の舞台に度々なっているからと言っても過言ではありません。これは実際のところどうなのか分からない、個人的な印象にすぎないのですが、両作品ともに『灰とダイヤモンド』の影響があるんじゃないかと思う箇所があります。『太陽にほえろ』でいえば松田優作演じるジーパン刑事が殺される場面。有名な腹部を押さえていた手を見ると血がべったり、そんでもって「なんじゃこりゃ!」ですね。『灰とダイヤモンド』にもかなり印象が似たショットがあります。『傷だらけの天使』は萩原健一さん演じる兄貴分が、死んでしまった水谷豊さん演じる弟分の死体をゴミ捨て場に引きずって捨てるシーンが最終回のラストに据えられています。これまた『灰とダイヤモンド』のマチェクがゴミ捨て場で命尽きるラストとそっくりな印象を受けます。影響関係があるのか、あるいはそれぞれ別の発想から生み出されたものなのか、僕には分かりませんが、いずれも傑出した素晴らしいショットであり、現在でも有名ですね。いずれにせよ、こういった「惨めで、血を流していて、挫折した、されど燃え上がっている青春」という表現は、第二次世界大戦後の世界における共通した青春の姿、その一種のナルシスティックな象徴的な表現なのかもしれません。
そこに凄まじく惹きつけられていた高校時代の僕にとって、マチェクはあからさまにスタイリッシュでイケてる兄貴的な存在に見えました。「俺もこれくらいの年齢になったらこうなってるんだ」などと(マチェクが殺人者であることも忘れて)考えていたかもしれません。物語の中のマチェクは24歳。久方ぶりに『灰とダイヤモンド』を観た僕は今23歳ということで、今は同級生の物語ということになってしまいました。幸か不幸か、今の僕はマチェクのようになりたいと素直に思えなくなっています。しかし、それでもより強い共感を、高校の時より実感を込めてマチェクに感じる瞬間も多々ありました。
マチェクという僕にとってのスターの年齢に僕は近づき、追いつき、追い越そうとしています。これまでも「若さ」について何度も描いてきました。これからもまだもう少し「若さ」について描いていくと思います。僕がこれから撮っていく「若さ」の中で、マチェクの若さと僕たちの今ここにある若さと、どのように繋がりがあるのか、どのように断絶しているのか、もっと見えてくれば、それはとても豊かな経験になるのだろうなと思っています。
いつになく真面目に、いつも以上に長々と、失礼いたしました。ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございます!(勿論途中で読むのをやめた方にも感謝しています)
中川龍太郎