映画監督とは?
こんにちは。武笠恭太です。
今日の話題は、ズバリ「映画監督とは?」です。
先日、大学で友人から「映画監督ってどんなことやってんの?」と質問されました。
確かに、映画監督の仕事って何をやることなんでしょうか。映画監督というと、実際に仕事を一緒にしたことがあるのは、このTokyo New Cinemaの監督(中川監督)くらいです。それにそもそも、僕は監督ではないので、一般的にどういう業務内容があるのかというのは正確にはまだ理解していません。
ですが、映画監督には、2種類の監督がいると思います。商業映画的な映画監督と、作家的な映画監督の2種類です。
今となっては、作家的な監督は少なくなりました。自前の動機で、自前の企画で映画をつくるということを、今の映画業界で実践している監督は本当に少ないですよね。
商業映画の監督という身分は、思いのほか低く、その作品に関わる人間の優先順位リストみたいなものがあったとしたら、割り合い下位に位置づけられています。企画、脚本があり、役者が決まって、さぁ誰を監督にしようかとなるそうで、そこでようやく監督という存在が浮上するのが商業映画の一般的なやり方のようです。映画はプロデューサーが作るのものであって、監督はその演出業務を請け負うに過ぎない。演出と一言でいっても、画面を支配する構図やカメラワークはカメラマンに委ねられ、音に関しては録音マンに委ねられ、キャラクターは役者自身に委ねられるのですから、監督とは非常に肩身の狭い思いで作ってるのだなと僕は思います。それでいて、観客から批判されたら、一身に責任を負わせられるのが監督であって、そう考えると、映画監督とは生半可な気持ちでは耐えられない職業だなと感心してしまいます。
そうした状況をよく描写している映画で、『マルホランド・ドライブ』(デヴィット・リンチ監督)という作品があるので、参考までにご覧になってみてもいいかもしれません。
では、映画において、監督に求められるものって何なのか。監督ではない自分が考えるのも、お門違いかもしれませんが、それは、トータルとしてその映画を理解することだと思います。
文学の世界でよく言われることですが、作者はその作品の作り手であると同時に、一番の良き読み手である、という考え方があります。
これは映画にも通用する考え方で、監督は一番の観客であって、理解者であるべき。役者やスタッフが判断に迷った時の良き道標になるんだと思います。
そんなことを考えていた一日でした!
武笠恭太