高畑勲監督『かぐや姫の物語』
こんばんは。火曜担当の武笠です。
更新が遅れてしまい申し訳ありません。
今日はつい先日観た映画、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』について少しだけ書こうと思います。この映画は、日本人なら誰でも知っている古典中の古典『竹取物語』を原作にしているので、ネタバレも糞もないと思いますが、まだご覧になっていない方は、軽く流し読みくらいで読んでくれるとありがたいです。
僕が観たのは、つい先日の連休中でした。録音部の石森くんと見に行ったのですが、休みとあってか、新宿のどの映画館も超満員で、当日券で何とかなるだろうと高を括っていた僕たちの判断は大きな誤算でした笑。移動中の電車の中で、今からでも入れそうな映画館を携帯で探し出し、何とか見つけられたところは、池袋にあるHUMAXシネマズという劇場。分を追うごとに予約画面の観客席は埋まっていき、彼と僕の分の席を何とか確保できた頃に池袋駅に到着しました。映画館で発券を済ませて、上映までまだ40分くらいの微妙な時間があったので、いったん外へ出て、近くにバッティングセンターがあったため、連日の寝不足を解消する意味も込めて、お互い2ゲームずつ汗を流したあと、再度劇場へ。
実は高畑監督の作品を劇場で観るのはこれが初めてでした。製作期間に8年も要したそうで、8年前というと、まだ映画を観るという文化が僕の中には芽生えていなかったと記憶しています。
“今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば、さぬきの造となむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。怪しがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば…”という小中学校の頃、何度も暗記させられたプロローグから始まり、そして、かぐや姫が八月の満月が近づく十五夜に天上に帰っていくまでの物語。
思わず涙してしまうシーンやショットがたくさんありましたが、その中でも印象的だったのが、姫が都に移り住み、かつての田舎を思い切れず“偽りの庭”と劇中で呼ばれる庭を自身で作っているシーンがあるのですが、その庭にあった石を姫が持ち上げたその下にいたムカデやイモムシやダンゴムシが蠢いている様を見下ろしている彼女の表情がとても優しくて、なぜか泣いてしまいました。
この映画の一番重要な(と個人的に思っている)ファクターは劇中のセリフにもありますが、「生きている手応え」ということになると思います。生きている実感はあるけど悩みや悲しみがある世界を地上世界と捉え、生きている実感などない穢れなき世界を月世界として捉えているこの物語上で、かぐや姫はどちらを生きるかの選択を迫られます。
そこで月の迎人に放つ姫の言葉、「もう少しだけここで生きることを許してください」(この通りかは定かではありません。すいません。)という言葉は、衝撃的でした。かぐや姫は自分がいずれ月に帰る(=死ぬ)ことを知っていながら、なおも少しだけでもいいから生きたいと思う彼女の生命力の強さに触れることができて感動してしまいました。
宮崎駿監督の『もののけ姫』のキャッチコピーは「生きろ」でしたが、この映画では「少しだけでもいいから生きてみよ」と高畑監督に言われているような気がします。
虫がいて、風があって、草木が生い茂っている。あらゆる生命の命の蠢き、匂い、手触りが自分の身体を伝うその手応え、というように「自然」の中の文脈で「生きている手応え」というものをこの映画は捉えていますが、今の都市化されたこの日本でその手応えをどう感じるのか少々疑問が残りますが、現在の僕の場合から考えると、その手応えとは、僕の周りにいる人たちの「反応」ということになります。
僕が毎週書いているこのブログ。ゼミの友人やすでに就職してしまった友達、つい先日のパーティーに来てくれた人など、まさかと思われる人たちが読んでくれていることを知り、そんな彼らの「反応」がまた来週も書いてみようという気にさせてくれます。
自分の起こしたアクションに対するリアクションが直接に返ってくることが、今の僕にとっては、大袈裟ですけど、生きている手応えになっています。バッティングじゃないですけど、自分が投げたボールをちゃんと打ち返してくれる人がいることが、これも大袈裟な言い方をすると、世界の豊かさなのだと思います。
『Plastic Love Story』の予告編が多くの人に見られていることや、先日の試写会での反応は、確実にTokyo New Cinemaスタッフ一同にとっての「生きている手応え」になっているのは間違いありません。
これからの広報活動において、いろいろとアクションを起こしていくことになりますが、それに対して、Twitterなどでリアクションを返していただけると大変ありがたいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
武笠恭太