ぜひ読んでください
こんにちは。火曜担当の武笠恭太です。
昨日、公開された『Plastic Love Story』の予告編はもうご覧になられたでしょうか?この予告編は現在あるイメージ映像(PV)よりも筋と内容を追えるように非常に丁寧に、かつ作品のイメージから外れないような繊細な作りになっています。この予告編を作ってくれたのは、カメラマン+編集(+主演)もする今野君で、彼がパソコンに向かって悪戦苦闘していたのを後ろから見ていたのですが、「俺に触るな」と言わんばかりの威圧感を後ろ姿から放っていたので、部屋の隅っこで別の作業をしていました。
そんな今野君の心血の結晶である予告編が昨日公開されて間もなく、Tokyo New Cinemaのツイッターではかなり反響がよく、さらなる拡散希望です。これは単なる通俗的な宣伝文句ではなくて、本当にそう思うのです。
本当に多くの人に見てほしい。いや、見させないといけない。
心の底からそう思いました。その訳は、今日電車のなかで、Facebookをちらちらとスクロールしながら流し読みしていて、僕が小学校時代に仲良くしていた友達K.Tくんが今の自分の悩みを打ち明けていたのを見てしまって。FacebookやTwitterなどのSNSに書いてあるような文章は、変に詩的であったり、感傷的でナルシスティックなものが多く、読んでいるこっちが恥ずかしくなりそうでなかなか肌に合わなかったのですが、今日読んだK.Tくんの記事は、全く取り繕うこともなく、誰に向けたものでもないような、痛切な悩みの告白のように感じました。
たぶんK.Tくんは僕のこんな記事など読んでもいないと思いますから、その内容をかいつまんで詳らかにしてしまうと、K.Tくんは高校を卒業後、調理師免許を取得して、コックとして現在5年目になるそうです。(彼と僕は高校は別々のところに進み、連絡先すら知らなかったので、彼が料理することが好きだったなんてつゆ知らずでした。)
僕の地元は茨城で、絵に描いたような暴走族やヤンキーが夜道を疾走しているようなところでして、こう言うと地方差別のように聞こえるかもしれませんが,学力も都会に比べて全体的に低いですし、大学も少ないので、就職は極めて困難でして、都心や中央都市に出てこない限り安定して給料がもらえる仕事に恵まれないところです。勿論、茨城の全てがそうではありません。(一応,誤解を招かないように、茨城の名誉のために言っておきます。)
僕はそれが嫌で地元を飛び出し、また都会に対する憧れもありましたから、大学は東京の大学を選び,今に至ります。それに対して,彼は地元でコックを生業としてきました。コックに対して夢を馳せ、実際働き出してからは、周りの地元連中から、「手に職があるからいいね」と羨ましがられたそうですが、思った以上に自分が凡才だったのか、あるいは調理業界に対する憧れと現実(詳しいことはわかりませんが、実際の調理業界は、他の多くの業種と同じく若い人がどんどん辞めていくそうです)との落差を体験してしまったからなのか、ただ毎日が流れ作業のようになって、「無駄に年を食っていくだけだ」と吐露していました。コックになりたての頃には、「料理人なんて趣味の範囲内でできるのに、なんで調理師になったの?」なんて皮肉を言われたそうで、そのときはまだ彼は、そんなことを口にする相手に殺意が芽生えるくらいの自意識とやりがいを持っていたようですが,今となっては,「無駄に年を食う」ことが確信に変わったそうです。
彼は今、妻子を持つ身。コックを辞めるに辞められず、家庭を持ち、家族を養うとなったら家族のことを何よりも一番に考えなければならない。
「自分のことより家族の未来なんです。自分のためより嫁、子供のためなんです。自分の夢より家族の生活なんです。だから、自分を犠牲にしてでも新たな一歩を踏み出したいんです。」
彼の言葉からの引用です。
彼のように、誰かのために生きていくことが自己犠牲と言うなら、誰かを踏み越えてでも生きていくことは、自己愛と呼べると思います。彼の言葉の意をそのまま汲み取ろうとするのであれば、その自己犠牲という一言に集約されると思います。10年くらい彼とは会ってもいないので彼がどう思っているかはわかりません。これは僕の恣意的で強引な解釈かもしれませんが、引用した彼の言葉の端々に、“それでも”どうしても自己を滅却できない感情的な葛藤があるように見えてなりません。
「人は本当に他人(自分)を愛することができるのか」というのが、『Plastic Love Story』のもつ象徴的かつ挑戦的なテーマです。
下っ端の24歳という若さで妻子をもつ夫の叫び、と言ってしまえば、彼を単純化して捉えることできますが、きっと僕なんかには理解し得ない痛みと苦しみがあるのだと思います。
だからこそ、彼に見て欲しい。この映画に登場する3人の女の子たち(恵理、理奈、奏恵、それ以外の人物たちも)が抱いている痛みと苦しみを見て、彼がどう思うか、もっと言って、彼はそこにリアリティ(あるいは共感、共鳴)を見出せるか。彼女たちの物語が他人事ではなく、自分の物語でもあると思えるか。それを彼に聞きたいと、今日電車のなかで切実に思いました。その答えの如何によって、この映画の価値が決定されると思うからです。
そして、彼のような若者は僕の周りにも皆様の周りにも、きっとすぐそばにいるはずです。彼と似た痛みと苦しみは確実にあるはずです。『Plastic Love Story』を届けるべき観客が僕の中でようやく姿を現してきたと思うと同時に、こういう人に向けて届けないといけない作品なんだと再認識した一日でした。最初の話に戻りますが、こういう作品があるのだとなるべく多くの人の目に留まるよう、僕たちは広報に全力を注がないといけないです。またできることなら、皆様のお力をお借りしたいです。よろしくお願い致します。
最後に。
K.Tくんとは、幸いにも、実家が近いので、年末に帰省したとき、今日僕が勝手に記事にしてしまったことのお詫びと、そしてチケットを渡そうと考えてます。
今回かなり私情にまみれた文章になってしまって、つまらなかったかもしれませんが、ここまでお読みいただきありがとうございます。
武笠恭太