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日本の「物語」は空っぽなのか?

「物語」

 前回の「『物語』を考える(1)」では、リオタールやハラリの論を借りながら、太古の時代から私たちにとって「物語」が必要不可欠であったことを確認しました。神話や叙事詩、寓話の存在は、人間が単に情報を処理するだけでなく、世界に意味を与え、他者と価値を共有するために物語を必要としてきたことを示しています。そして現代では、経済の文脈からも、企業や行政、ブランドが人々から選ばれるために「物語」が要請されていることをお伝えしました。変化し続ける時代の中で常に必要とされてきたストーリーテリングの力ですが、それではこれからのAI時代に特に必要とされるのは、どのような「物語」なのでしょうか。

生成AIによって文章、画像、動画が大量に作られるようになった現在、単に「わかりやすい情報」を発信するだけでは、企業の存在感はすぐに埋もれてしまいます。むしろ問われるのは、その企業がどのような視点で世界を見ているのか、何を価値あるものとして届けようとしているのか、そして顧客や社会との関係をどのような物語として結び直すのか、ということです。当然、たったひとつの冴えたやりかた、は存在しません。その時、場所、人にあった千差万別の「物語」が必要です。

しかし無理に0から創り上げずとも、私たちには約30万年もの参考すべき歴史があるはずです。そして30万年と比較してしまえば見劣りしてしまいますが、体系的な「物語」の歴史も見逃せるはずはないほどの長い時を積み重ねています。この記事では特にここ日本の最古の「物語」だと考えることができる『古事記』のストーリーテリングをもとに、心理学者・河合隼雄先生の「中空均衡構造論」の手を借りながら、日本の今後の「物語」を考えていきたいと思います。

『古事記』とは

 國學院大学「古典文化学」事業によれば、「『古事記』とは和銅五年(712年)にできあがった現存最古の歴史書であり、上中下の三巻からなっています。(中略)壬申の乱を経て即位した天武天皇が、諸家の持っている『帝紀』と『本辞』が正実を失い多く虚偽を加えていることを憂慮し、正しい伝えを後世に残そうとしてできあがったのが『古事記』であるといいます。つまり個々の家々が持つ歴史観の統一を目指して作られたのが『古事記』であり、日本を二分した内乱を経て即位した天武天皇にとっては、人心の安定をはかるうえで欠くことのできない書物であったと言える」[1]、とあります。

では具体的にどのようなエピソードが語られているのでしょうか。有名なもので言えば、イザナミとイザナキの黄泉国での出来事やアマテラスの天の岩屋への立てこもり、スサノオの八岐大蛇退治など、皆さんも一度は聞いたことがあると思います。この時点で既に『古事記』という体系的で統一的な「物語」を作る難しさとその絶大な影響力がよく理解できるはずです。

出典:wikipedia

 そしてこうした神々の「正史」を規定することで求められたのは、天皇の権威を高めながら国を統一させることであったことは忘れてはいけません。今では「新日本建設に関する詔書」、いわゆる人間宣言を昭和天皇が行なって久しいですが、それまでは天皇の神性をいかに確立するかが国に安定をもたらす重要な要素であったと考えられます。そこでうまく利用されたのが『古事記』をはじめとする日本の「物語」であったわけです。

「物語」とは、出来事を並べるだけではなく、誰がどこから来たのか、なぜこの秩序があるのか、私たちはどのような共同体に属しているのかを、理解可能な形にまとめるものです。現代の企業のナラティブも、ある意味では同じ問いに向き合っています。自社は何者なのか、なぜこの事業を行うのか、どのような社会的価値を生み出すのか。この点では『古事記』の編纂事業も企業のナラティブ設計も似たものであるということができるでしょう。そしてこの『古事記』のストーリーテリングには日本独自の物語性が表出している、ということを指摘したのが前述の河合先生であり、その指摘こそが「中空均衡構造論」に他なりません。

「中空均衡構造論」

 「中空均衡構造論」とは、河合先生がその著書『中空構造日本の深層』[2]において提唱した、いわく日本に特有の心理構造です。日本の本質とは中空構造、つまり中心が空っぽであることであるとした、この刺激的な指摘は日本最古の「物語」である『古事記』とどのような関係があり、そして一体どういう意味を示しているのでしょうか。

 ここではわかりやすく先ほども挙げた『古事記』の上巻のエピソードを例とします。この「物語」の中では、イザナギとイザナミからアマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴子が生まれます。前後の二神、つまりアマテラスとスサノオは、ご存知の通り天の岩屋隠れや八岐大蛇退治などで面目躍如の活躍をしますが、一方不思議なことに真ん中に生まれたツクヨミはほとんど無為の神として、その活動がほとんど一切記述されないのです。河合氏は、この日本最古の「物語」である『古事記』のどこか不自然にも思えるストーリーテリングから、ツクヨミの中空的な存在が、このアマテラスとスサノオという対極にある二神のバランスを取るために重要である、と指摘しています。

この日本の「物語」の特徴は、例えばキリスト教の「神」のような唯一絶対の存在が中央に存在し、全てを統合してしまうような西洋の神話の構造と大きく異なります。もちろん、西洋の物語にも多様な構造があり、一概に中心志向的であるとは言えません。しかし、少なくとも一神教的伝統や王権神話、あるいは英雄叙事詩の一部においては、世界を統合する中心的な原理や超越的存在が強く意識されてきました。その点で、中心に明確な統合者を置かず、むしろ空白によって均衡を保つという河合先生の読みは、日本の「物語」の構造を考えるうえで示唆的です。

そして先生はさらに論を広げ、中心を空にしてその周りのバランスを取る、という「中空均衡構造」を日本の神話である『古事記』だけでなく政治体制や心理にまで見出せるとします。現代にも残る、天皇を象徴としながらも実質的な力は持たせないとする天皇制はその良い例ですし、批判されがちな日本人の「空気を読む」心理もある意味では自分という中心を空にして均衡を保とうとする作用かもしれません。

日本の「物語」

 この河合先生の「中空均衡構造論」から見る『古事記』のストーリーテリングから、日本の「物語」の在り方について私たちは多くを「学ぶ」ことができますが、もしかしたらそれよりも「気付かされる」ことの方が多いのかもしれません。例えば、カンヌ国際映画祭では脚本賞を、米アカデミー賞では国際映画長編賞を獲得し、近年で国際的に最も評価された日本映画となった濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』では、主人公・家福の妻である音の死=不在が作品の中心になっていました。音との関係の縁にある高槻やみさきとの関係は、彼女の不在ゆえに調和され、絶妙なバランスを取りながら「物語」を進めていきます。

濱口監督がこの「中空均衡構造」を意識されていたかどうかは分かりませんし、これはあくまで解釈の一つに過ぎません。ただこの古代の『古事記』から始まり、現代の『ドライブ・マイ・カー』に引き継がれている日本の「物語」から見てとることのできる「中空均衡構造」が、私たち日本人のストーリーテリングにおいても根強いもののうちの一つでありそうなことは言えるかもしれません。

この視点は、企業のナラティブにも応用できそうです。企業の物語というと、つい創業者の強い理念や圧倒的なビジョン、明確な勝利の「物語」を想像しがちです。もちろん、それらは強力な「物語」になりえます。しかし、すべての企業がカリスマ的な中心を持っているわけではありません。むしろ、顧客、社員、地域、技術、歴史、未来像といった複数の要素の関係性の中に、その企業らしさが生まれる場合もあります。中心を強引に作るのではなく、企業の周囲にある経験や記憶を結び、そこに意味の中空を残すこと。それは、企業が一方的に「私たちはこういう存在だ」と定義し切るのではなく、顧客や社員や地域が、それぞれの経験を重ねられる余白を残すことでもあります。これもまた、AI時代の「物語」にとって重要な方法ではないでしょうか。

AI時代に

 もちろんこれからの「物語」にこの理論を無理やり反映させる必要があるとは思いません。『古事記』や中空均衡構造論が教えてくれるのは、「物語」にはさまざまな形があるということです。絶対的な中心を掲げるストーリーテリングもあれば、中心を空けることで複数の関係を生かすストーリーテリングもあります。

これは企業ナラティブも同じです。すべての企業が、大きな理念を声高に語る必要はありません。時には、顧客の経験、地域との関係、制作の過程、社員の思い、積み重ねられてきた小さな実践の中に、その企業にしか語れない物語が存在します。TNCは、映画制作の経験を通じて、「物語」が人の認識や感情をどのように動かすのかを考えてきました。だからこそ、映像、PR、Web記事、SNSを単発の制作物としてではなく、企業の価値を社会に伝えるためのストーリーテリングとして捉えることができます。「大きな物語」の後で、私たちは今、どのような「物語」に魅力を感じるのでしょうか。そしてAI時代に、企業は何を、どのように語るべきなのでしょうか。これからのTNCの活動でも考え続けていく問いです。(TNC川口)

TNC Journal 「物語」を考える(2) 260814


[1]古事記学センター、「古事記あらすじ」『「古典文化学」事業』、國學院大学、2016年。

[2]河合隼雄、『中空構造日本の深層』、中央公論新社、1999年。https://m.media-amazon.com/images/I/31tj3t7BuxL.jpg