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【第5回 キム・ギドク監督『サマリア』】

火曜日は中川です。

このブログは月曜日がお休みなんですね。何だかプロ野球みたいですね。新しいスタッフもいますし、サポートしてくれる人たちも沢山います。常連のキャストさんもいますし、たまに月曜日に特別に記事をいつもとは違うメンバーに書いてもらっても良いのかもしれませんね。もうちょっと軌道に乗ってきたら、そんなことができるかもしれません。

「青春映画」という括りでどこまで続けられそうか、自分の中で結構試しているところがあったのですが、ここらでいったん休憩しようかと。先週木曜日に早稲田松竹で観た韓国映画『サマリア』について書きます。この映画のキム・ギドク監督は僕が最も尊敬している現役の監督の一人で『嘆きのピエタ』という新作が今月公開予定です。『嘆きのピエタ』はヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を取って評判なのかもしれませんが、そういうことはあまり関係ありません。キム・ギドクさんの作品なら何処でグランプリを取っていようが、自主上映しかしていなかろうが、全然関係ありません。少なくとも僕にとっては。「観たい…観る!」だけです。まどろっこしい言い方をしてしまいましたが、それくらい好きな監督ということです。

 

さて、本題。

『サマリア』を初めて観たのは何年前だったでしょうか。凄まじい衝撃を受けました。

何の疑いも抱いていないかのような素振りで「海外旅行のため」に嬉々として援助交際を繰り返す女子高校生のチェヨン。チェヨンにはヨジンという親友がいて、この二人が上手く表現できないくらい物凄く仲良しなんです。この年頃の女の子にはこの映画のような関係が不自然ではなく成立するのでしょうか。僕は残念ながら少女になったことがないので、「異性との恋も知らず、開かれた交友関係があるわけでもなく、世界に二人きりの最も親密な関係」というのはちょっと想像の域を出ません(いや、むしろ想像さえできませんね)。ヨジンは、売春を疑似的な恋愛として楽しんでいるようにさえ見えるチェヨンのことを不安に思いながらも見守って、共犯関係を結んでいます。

ある時、チェヨンが死に(まるで死ぬことさえ恐れていないような。ここが衝撃!)、生き残ったヨジンは巡礼のように自ら逆援助交際に身を染めていきます。ここでいう逆援助交際というのは、親友が相手にした男たちに自分が金銭を返しながら肉体関係を持っていくことのようです。

そんな困った発想を行動にうつしているヨジンには心優しい警察官の父が一人。ちょっと日本の父娘のステレオタイプな関係から鑑みるとやや親密すぎるものに見えます。これは韓国だと普通なのか、父子家庭だからなのか、そこら辺はよく分かりませんが、とにかく温かい人であることが十分に伝わってくる父親です。そして娘であるヨジンの方も父を「静かに」ではあるけれども「確実に」慕っています。二人のちょっと不自然のようにも見えるんだけど、凄く自然で日常的な、想い合っている景色は短いけれど見事です。

そんな父が、娘が援助交際(こんな回りくどい言い方ではなく売春というべきなんでしょうかね)している場面を目撃してしまう。そんな偶然あるかよ!と突っ込みたくはなりますが…まあ父としては当然衝撃を受けます。父はヨジンにそのことを告げる勇気がないし、止める術もない。もっと言うと、どうしてそんなことを自分の愛する娘がしているのか、さっぱり理由も分からないんでしょう。ただただ絶望するしかない。娘の援助交際を遠巻きに「見守り」ながら、やり場のない感情を相手の男性にぶつけていく。娘には気付かれないように、娘の若い肉体に触れた男たちへの報復として行使される暴力はエスカレートしていきます。

結局父と娘は母の墓場がある静かな田舎に旅立って、二人で二人だけの静かな時間を共有します。父は最後まで何も言いません。ヨジンも何も言わない。ただ別々の時間に嗚咽して、ただ別々のことを考えながら同じ場所にいる。そして、最後、父は娘に車の運転の仕方だけを教えて、その場を置いて去る。見事なラストです。

 

この映画で描かれているものは哀しみ連鎖なんて簡単な問題ではないんだと思います。海外旅行のために売春をする少女の気持ちを誰もが理解することは難しいかもしれません。それでも、誰かに何であれ必要とされること、それが売春という言葉でしか語れない行為であったとしても、誰かを癒して、確かに感謝されること(ここが重要です。男たちは少女を買うという倫理的に問題のある行為をしていることに自覚はあるものの、心の底からその少女に感謝しているし、そこに偽りがないように描かれているところが斬新)、そこが次第に自分のアイデンティティになっていってしまうこと、そこは共感という言葉ではくくれないけれど、「そうしかあれなかった」彼女だけの感情が渦巻いているような気がします。

自分の娘ほどの年齢の少女を買うようなロクでもないオッサンたちを、キム・ギドクさんは決して悪人には描かない。むしろ可哀想な気さえしてくるように描いている。ここがやっぱり凄いんだと思います。中途半端な道徳の授業をやるくらいなら、この映画を上映した方が良いんじゃないかって気がします(そりゃ、さすがに無理か)。

倫理云々を超えた、まさに映画らしい映画だと思います。映画が政治でも宗教でも哲学でもないからこそ、映画が映画であるからこそ、軽やかに倫理を超えられる、超えたところで思いも寄らない強烈な感情を映しだせた、その鮮烈な一例となっている作品だと思います。

 

「そうしかあれなかった少女の物語」を起点として、その親友が新しい「そうしかあれない少女の物語」になっていきます。父はそこに追随していくかたちで「そうしかあれない男の物語」を突っ走っていきます。そしてラスト、その物語が小さく、清潔に結ばれます。

 

物凄く、暗くて、しんどい映画ではあるんです。「大切な人と観にいってください」みたいなキャッチコピーが夏休みあたりになると毎年聞えてきますが(そういう場合、僕は必ず実家のオカンを連れていくことにしています)、この映画こそ「大切な人」と観てほしい映画な気がするんです。

『サマリア』は「恋」のような映画なんですね。初めて観た時にそのように感じました。中学時代の放課後、思いもよらない場所で好きな子とすれ違ってしまった時のような、そんな後味の映画なんです。挨拶しといた方が絶対に良いんだけど、何となく視線を下に向けてしまうような、あるいは「友達との会話に夢中であなたに気付いてませんよ!」ってふりをしてしまうような、そんな気分が残る映画なんです。

あまりに感覚的な話なんで理屈もなにもないんですけど、あえて何かこじつけるのだとしたら、それはこの映画が「愛」を前提にした映画だからかもしれません。この映画の中には、乱発されがちで使うことが少々躊躇われる「愛」という言葉でしか伝えられない何かがあるんじゃないかと思います。ある女の子は真剣に親友を愛しているし、その子の父親は真剣に娘を愛している。買春してるオッサンたちにだって真剣に愛している家族だったりの存在があるんでしょう。そこまでちらちらと見せてきます、この映画は。ただ起点となっている女の子・チェヨンが何を愛していたか…そこだけはちょっと見えてこない。死ぬ間際になっても自分の家族のことは一言も言わず、自分の客でちょっと親切だったお兄さんと会いたいと言うような、そんな彼女についてはよく分からない。ブラックボックスとしてあえて説明されていない。凄まじすぎる、不気味さと悲哀の予感だけが残ります。

 

この映画、好きな人と観にいけたら最高に素敵ですよ。お相手によってはその後の会話に若干困るかもしれませんけど。

 

この記事の最後の方だけ読んで、ラブストーリーかなんかだと勘違いして、この映画をレンタルしてしまい「あれれ…?」となるカップルが一組でも増えることを願いつつ、今日の記事は終わります。

いつも読んでくださる方、ありがとうございます。

 

中川龍太郎