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タイパ時代に、短篇小説はどう読まれるのか─「実験性」と「完結性」から考える物語の未来
「タイパ」が重視される現代で、短篇小説はどう読まれるのでしょうか。倍速視聴も前奏スキップも当たり前になった情報中毒の時代に、短い物語が持つ「実験性」と「完結性」という二つの力を、魯迅からショートショート、大江健三郎の言葉までを手がかりに考えていきます。

タイパという言葉が示す、情報中毒の現在地
みなさん、最近「タイパ」や「ドパガキ」なんて言葉よく目にしませんか。インターネットの普及によって情報を手軽に入手可能になった現代では、情報伝達や手続き、あらゆる処理スピードが加速し、その結果、時間の余白が生まれました。
可視化された余白は、それすらも効率的に消費しようとする人々によって、過剰な情報処理タスクを負わされることになります。その結果が、「タイパ」や「ドパガキ」といった言葉の流行に裏付けられる、情報中毒です。
これらは娯楽コンテンツにおいても同様にみられます。たとえば「映画の倍速視聴」「音楽の前奏スキップ」。そもそも時間のかかる・効率の悪いと判断されたコンテンツは、消費すらもされなくなります。
活字離れのなかで、短篇小説はどう求められるのか
そこで、一つ「短篇小説」を挙げ、考えてみたいと思います。小説自体は「活字離れ」から分かる通り、年々販売額が減少しています。
| 文庫本の推定販売額 | 金額 |
|---|---|
| 2014年 | 1,213億円 |
| 2024年 | 737億円 |
出典:出版科学研究所『出版指標年報』2025年版
10年で約4割の縮小です。では、作業の合間に手軽に読める短篇小説は、現代ではどのように求められるのでしょうか。この時代だからこそ、短篇小説について本質的に考えてみるべきではないでしょうか。
今回は「タイパ」に着目し、「短篇小説」の効果、可能性を追求し、今後の物語をめぐる問題について考えていきたいと思います。
短篇小説が持つ二つの側面
短篇小説はその特性から、時間をかけずに読み終えることができます。じっくりと向き合う読書とは異なりますが、隙間時間の有効活用に飢える現代人にとっては非常に「効率的」な体験を得られるコンテンツだといえます。現代の風潮的に、追い風になるような特性ですね。そして、その特性は常に二つの面を持ちます。
1実験性──形式を破りやすく、即効性がある
一つは、既成の形式に縛られない、あるいは破りやすいという特性です。それは、アクチュアルに傾けやすい内部構造によるものです。
短篇の持つ時間的問題は読者だけでなく、当然、作家側にも言えることです。そのため、長編とは違い、常に世の中の流れを掴みながら、自分を変え、作品を変えることが容易になるのです。
中国の魯迅がいい例です。彼は自作の執筆だけではなく、海外小説の翻訳も多く残していますが、そのほとんどが短篇でした。それは意図的なもので、迅速な思想啓蒙のためには時間的猶予がなく、また、古文ではない新しい文体を試すためには短篇のような実験場が適するからです。
内容の短さは、それが共有されるときにも効果を発揮します。感想や批評が短期間のうちに生まれやすく、またそれによって読者を増やすことができるからです。現代でも同じような現象がありました。「ショートショート」の流行です。ネットの存在も相まって、人気は瞬く間に広がりました。
執筆と読了の、二つの即効性が短篇に求められる形式的な要素だといえます。
2完結性──時代を越えないからこそ、批評性を帯びる
もう一つの面は、完結性です。これは、短篇に持ち込まれる実験精神と通じる側面です。その実験性から、芸術至上主義の印象も持たれやすい短篇小説ですが、同時に完結性も持つのです。一体どういうことなのでしょうか。
先述した時間的構造をひくと、短篇は時代を同時的にとらえることが可能であり、また有効だといえます。しかしそれは言い換えると、刹那的であり、時代を越えず、ただ、自律性も求められる、ということになります。
時代を越えないということは、つまりそれ自体で時代に対する批評性を帯び、同時に体制に対して反順応的にもなり得るということです。
「開かれた短篇」と「閉じた短篇」
短篇の持つ二つの性質——「実験性」「完結性」をお話してきましたが、ただ、それは作家側の強靭な精神性の下で要求されるものでしょう。それがない場合、短篇は創作の逃げ道として選択されてしまいます。
「タイパ」が重視される現代において、果たして作家はその精神を保ち続けることはできるのでしょうか。作家は同時に読者でもあるわけで、つまり現代の生活者でもあるわけです。もし、作家側の意識根底に効率性が搬入されようものなら、その作品は自動生成されるコンテンツと何ら変わらなくなり、創作の在り方は、未来のない小さな穴へと収斂されていくことでしょう。
安部公房との対談の中で、大江健三郎は短篇の二つのタイプについて述べました。「開かれた短篇」と「閉じた短篇」です。 — 安部公房『発想の周辺』(1974)
前者は実験性を持ち、時代に対する問題意識を抱え、それ故に踏襲されにくい性質を持ちます。一方後者は、現実問題からは切り離された、言わば「老人的な人生の静けさ」のように、美しくもただ完結へ向かって突き進むような作品のことを指します。あるいは実験性が形式となって表れ、処理されるような作品です。この場合は、発表当時は前者として認識され、時代を経て後者として受け入れられるようになった、といった感じでしょう。
AIが物語を量産する時代に、創作の本質はどこにあるのか
しかし、現代における短篇、創作の根底に流れる表現哲学は、これらのどちらにも属さない気がします。
小説から離れて考えると、インターネットのコンテンツ生成、たとえばTikTokやInstagramリールなどは、視聴回数を稼ぐために同じようなフォーマットを重複し、似たようなコンテンツを生産する傾向があります。また、書籍や映画に関しても、ビジネスとしての見込みだけではなく、生産の効率性だけを重視したような作品が山ほどあります。
では、そこに見出される物語に、物語の真価はあるのでしょうか。
短篇小説に限らずとも、今まで紹介してきた「実験性」と「完結性」はこれまで人類が成してきた偉業に備わっているものです。新たな思想や開発は、時として歓迎されるものではありませんが、それは未知なる存在であるからです。また、それらにはたどり着くゴールがあります。完結とはいきませんが、そこへ向かう試行錯誤、その中に創作の本質があるのではないでしょうか。
そして、一つ存在として時代の中で自律し、未来への回路も持っている物語こそ、これからさらに必要とされるのではないでしょうか。AIでコンテンツを大量生産できる現代だからこそ、「物語」や「創作」について、私たちは考えていかなければならないのです。
Tokyo New Cinemaについて
Tokyo New Cinemaは、映像制作と経営学研究を掛け合わせた伴走型のブランド・クリエイティブ企業です。効率のために形式を反復するのではなく、その企業にしか語れない物語を、時代のなかで自律する一つの作品として立ち上げることを考えています。
出典:出版科学研究所online、https://shuppankagaku.com/statistics/paperback
安部公房、『発想の周辺』、新潮社、1974年